生産者と共に VOL.5 初恋レモン✕山吹ウズラ

10月27日(土)、ホテルアークリッシュ豊橋16F レストランKEIにて

生産者と共に VOL.5として、河合果樹園の無農薬レモンと故内田貴士氏の三河山吹ウズラを使ったランチが味わえます。一品一品、総料理長今里と私、河合がいろ色な説明を織り交ぜながら、2時間かけてランチを楽しんでいただく企画です。

内田貴士氏は豊橋百儂人で一緒に活動していた仲間でした。かれの作るウズラ肉はオンリーワンとして五つ星ホテルのレストランやANAのファーストクラスや豪華列車瑞風のメインディッシュに選ばれ、これからこの豊橋を引っ張っていく逸材だったのですが、今年の1月に帰らぬ人となりました。本当に悔やまれます。

そんな彼の大切に保管されていたウズラ肉を食べに来ていただければ幸いです。

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1.内田貴士さんの軌跡


                       筆 黒子儂人・清水貴裕



   今から6年前の2011年12月、内田さんは自ら豊橋百儂人の門を叩きます。

   「豊橋のウズラ業界を復興する」

   そう心に誓い、飛び込んできた彼の姿を今も忘れることはありません。


   2009年、飼育していたウズラが鳥インフルエンザに感染し、約20万

   4千羽の殺処分を実施。

   長年勤めてくれた従業員も解雇せざるを得なくなり、空っぽになった

   飼育棟を一人でぼーっと眺めながら、「もうこれ以上落ちることは

   ない。また一からやり直そう。」と自分に言い聞かせていたそうです。


   1975年生まれの内田さんは、実はその経歴がユニークで、アメリカの

   サンノゼ州立大学卒業後、そのまま現地のコンピューター関連会社に

   就職しました。

   将来、アメリカでコンピュータ会社を設立し、世界を相手にビジネス

   を手がけ、再び日本や日本人の技術力が世界から認められる日が来る

   ことを夢見ていたそうです。

   当然ですが、英語も堪能で、海外の取引先とはすべて英語で交渉が

   できたそうです。

   普段からあまり自分自身のことについて自慢したがらない方でしたので、

   やっとのことで聞けた彼の自慢がこの「英語力」でした。


   しかし、2001年、26歳の時に父親が入院し、それを機に帰国します。

   そして、そのまま父親の経営する会社(東海有機株式会社)に入社。


   「これまで自分が歩もうとした道とはまったく畑違いの仕事で、

    戸惑いしかなく、やめたくて仕方なかった。」

   と、当時のことをこう話してくれました。

   「キツイ、キタナイ、カッコワルイ」のいわゆる"3K"を地でいくような

   世界から開放されたくてアメリカまで渡ったのに、結局、呼び戻されて

   父親の後継者として一本のレールに乗せられている・・・

   愚痴が次から次へとこぼれてしまうほど、当初はこの家業にまるで

   魅力を感じなかったそうです。

   しかし、父親の病状が善くなったり悪くなったりを繰り返す中で、

   家族を少しでも安心させるために「仮面」を被り、我慢しながら

   難しい経営の舵取りを続けたといいます。

   その気持ちに徐々に変化が見られ始めたのは、地域で活躍する他の

   農家の姿が目に入るようになってからでした。

   「最初は仕事を覚えるのに必死だったけど、少し余裕が出てきてから

    自分と同じように農業を頑張っている人たちがいることに気づいた。」


   特に彼が魅力に感じていたのが、無農薬レモンのスペシャリスト、

   河合果樹園・河合浩樹さんの存在でした。

   2003年頃に発行された、豊橋商工会議所の月刊広報誌"NEW VOICE"に

   河合果樹園さんが特集記事で紹介されていたのを読んで、ひそかに

   憧れを抱いていたそうです。

   後に、その内田さんも2016年11月号で"NEW VOICE"の特集記事を飾り、

   見事「恩返し」を達成したのはさすがの一言に尽きます。


   こうして、悶々としながらも少しずつ仕事が板につくようになって

   きた矢先に、あの鳥インフルエンザ事件が発生したのです。

   飼育棟から1羽のウズラもいなくなった時、不思議と絶望感よりも、

   「次のことを考えないと」という気持ちの方が強かったそうです。

   当時の豊橋産ウズラ卵は、いわゆる「風評」の影響も災いし、

   しばらくの間、全国のスーパーから消えてしまう時期が続きました。

   内田さんの会社が再出発した時でさえ、鳥インフル発生前と比べて

   卸価が3割減の状態だったそうです。


   「日本一の生産量を誇る豊橋産ウズラ卵」

   を守るために奮闘してきた仲間たちの廃業・・・

   を目の当たりにし、このままでは自分たちも同じ方向へ舵を

   切らざるを得なくなるだろう。


   そう感じた内田さんが苦肉の策で目をつけたのが「ウズラ肉」でした。

   いえ、正確には、アメリカから戻ってきた時、すでにウズラ肉に興味

   を持っていたそうで、最大の障壁は「ウズラ卵の生産量日本一」と

   いうレッテルだと、後年、彼は語っていました。

   「豊橋=ウズラ卵」を守ることを優先したい。

   無論、そのために努力を続けていたのですが、鳥インフルを機に

   個の力ではどうすることもできない壁が立ちはだかり、ついに

   新しい「ウズラ肉」の道へと彼の心を突き動かすのです。


   その頃、時を同じくして豊橋百儂人が立ち上がります。

   2009年6月に河合果樹園の河合さんの「10年来の構想」をもとに、

   数名の農業者に呼びかけてスタートした豊橋百儂人は、設立当初から

   話題になり、まだ活動自体がこれからという状態にも関わらず、

   新聞、雑誌、テレビ、ラジオなどでも紹介されました。

   どの媒体を通じて内田さんのもとへ届いたかはわかりませんが、

   まもなくして内田さんも豊橋百儂人のメンバーとして正式に加入

   されることになります。2012年1月のことでした。


   百儂人に入ったばかりの内田さんは、まだ道が定まらず、迷いながら

   もいろんなものを吸収したい、という気概に満ちた様子が一際印象的

   でした。

   一言でいうと、荒削りでギラギラしていたと云いますか・・・

   しかし、

   「豊橋のウズラ業界を復興する」

   そう豪語する裏側で、お肉の良さを知ってもらうために、まずは

   地元豊橋から始めようと、地道にイベントなどで露店販売を始めた

   ことは皆さんもよくご存知の通りです。

   卵業界とは違い、肉業界には肉業界ならではのルールやノウハウが

   存在することを痛感し、恥も外聞も捨てて、同業である精肉店

   「弟子入り」し、夜遅くまで「修行」していたそうです。

   普通なら、いずれライバルになるであろう相手に、大事なノウハウ

   を教えることなどもってのほかと思うはずですが、不思議と

   内田さんから頭を下げてお願いされると断れなかった、という方が

   結構いらっしゃって興味深いです。

   これも、内田さんの人徳を表す一つのエピソードですね。


   2012年3月開催「豊橋花園百儂人マルシェ」

   http://agri.aichi.jp/magalog/img/20180209007.jpg

   ※「豊橋百儂人伝説を唄う」左から5人目が内田さん




   時々、内田さんからお誘いいただき、一緒にお邪魔させて

   いただいたのが、豊橋駅西駅方面にある

   太朗串

   という焼き鳥屋です。


   実は、このお店の大将こそが内田さんの心技体を鍛えた師その人で、

   「これからウズラ肉でいける」と太鼓判を押してくださった方です。

   肉の焼き方を一から学び、ウズラ肉の露店販売を行うきっかけを

   得た大切な恩師でもあります。

   「もし大将がここにいなかったら、今の自分もここにいなかった。

    たくさん怒られたけど、それが今になって全部身になっています。」

   その大将と内田さんがそう多くない言葉で交わし合う会話を傍らで

   聞いているのがとても心地よく、男同士の会話とはこういうものだ

   と、勝手ながらに感動していました。



   2013年6月「段戸山三河炭やき塾」にて(炭焼き体験)

   http://agri.aichi.jp/magalog/img/20180209006.jpg

   ※炭焼き窯から出てくる真っ黒の内田さん



   ここから皆さんもご存知の通り、内田さんの快進撃が始まります。


   東京、京都の老舗料亭や高級ホテルへ「試食品」を持ち込んで自らが

   売り込み、契約が取れるとすぐにフェイズブックを通して発信。

   一見すると、自分の成果を自慢しているだけのようにも見えますが、

   そこには彼らしい地域愛が含まれているのです。

   「固有名詞もすべてアップするのは、それを見た同業者の仲間や、

    これから新しい販路を切り開こうとしている地元の人にとって

    少しでもヒントになればという思いからです。」

   まあ、面と向かってそう言うのはさすがに変なので・・・

   そう言いながら照れくさそうにする彼にとって、レベルの高い顧客を

   シェアすることが地域の活性化につながる、という信念は揺るぎない

   ものだったようです。


   さあこれから、という矢先の2013年、内田さんのお父さんが他界

   します。

   あまり広くは知られてはいませんが、内田さんにはもう一つの顔

   があり、精神障碍者社会復帰施設の運営者という一面もお持ちでした。

   実質の運営はご家族の方でされているということですが、

   お父さんが亡くなられたことでこの施設の運営責任者としても

   引き継ぐこととなり、目に見えて忙しそうになっていくのは

   この頃からだと思います。

   テレビなどの取材が増え始めたのもちょうどこの頃からです。


   忙しい内田さんが珍しくはしゃいでいて可愛かったエピソードを

   ひとつ。

   ある番組の放送後に、所ジョージさんの事務所から電話があり、

   所さんがウズラをペットに飼いたいと仰っていて、もし可能なら

   何羽か届けてもらえませんか?という要望が入ったそうです。

   すぐに内田さんがウズラの幼鳥を数羽贈り届け、大変喜ばれた

   所さんが数週間後、自宅で飼っていたウズラの成鳥の写真を

   内田さんの元へ送られたそうです。

   その写真を見せてくれた時の内田さんの満面の笑みが

   とてもキュートでした。

   所さんと内田さん、お二人の誠実さが伝わってきて微笑ましい

   ですね。


   2015年頃から、試験的に「平飼い」を始め、卵の出荷をすべて

   ストップし、「肉の一本化」に踏み切る覚悟を固めます。

   株式会社うずらの里・内田ファームに組織変更し、名実ともに

   「過去を断ち切る」覚悟を決めたのもこの頃です。


   平飼いに挑戦するきっかけとなったのは、「真のオンリーワン」

   を目指す農業者が集まる豊橋百儂人の存在が大きい、とよく

   話していました。

   「三河山吹きウズラ」というブランド名で地元産ウズラ肉の

   確固たる地位の確立を目指し、他との差別化を図ろうとするその

   姿勢は、先輩の儂人さんがまさに良いお手本だったと思います。


   「三河山吹きウズラ」平飼いの様子

   http://agri.aichi.jp/magalog/img/20180209005.jpg



   2016年秋、これまでの内田さんの取り組みにおいて、集大成的な

   出来事が起こります。

   全日空国内線ファーストクラス機内食に「三河山吹きウズラ」が

   採用されたのです。

   採用が決まった時の内田さんの喜びに満ちた表情と、その裏側に

   とてつもない緊張感が漂っていたことが、まるで昨日のことの

   ように思い出されます。

   機内食の採用は、9月から11月までの3ヶ月間で、その間の出荷量が

   通常の何倍にも膨れることから、生産と加工のオペレーションを

   きちんと維持できるのかどうか、という不安がひとつ。

   もう一つは、夏の暑い時期から準備していくため、飼育数を何倍

   にも増やしながら、どうやって暑さ対策を講じようか、という不安。

   飼育場にお伺いすると、全身をススで真っ黒にした内田さんが

   奥から現れてきたので理由を聞くと、施設内の温度をこれ以上

   上げないように大きなファンを毎日掃除しているのだとか。

   豊橋百儂人のポロシャツを10枚用意してほしいと頼まれたのは

   ちょうどその頃です。

   同じシャツを15枚も持っているのは、パタリロか内田さんくらい

   だよ、と言って2人で笑いました。


   「ミシュラン星20個獲得」達成記念時のPOP

   http://agri.aichi.jp/magalog/img/20180209004.jpg




   内田さんにはひとつ、絶対に叶えたい夢がありました。


   2019年 飲食店開業


   そう、自分のお店を持つことでした。


   豊橋まちなかマルシェ、のんほいパーク(ナイトズー)への出店は

   内田さんにとっての「原点」だったそうです。

   なので、よほどの事情がない限りすべての機会に出店されていた

   ことは有名です。


   「これからはウズラ肉でいく!」と決めて、最初に自分が店先に

   立って商品を提供したのが、豊橋まちなかマルシェだったと

   聞きます。

   その時、ウズラ業界に携わって以来初めて「ウズラの味を直接

   お客さんから教わった」ことが、彼の中で「ビッグバン」へと

   繋がったのだそうです。

   だから、どんなに忙しくても、この2つのイベントだけは自分が

   店頭に立つことを使命としていたのでしょう。

   朝、誰よりも早く会場に入り、一人で時間をかけて設営して

   いる姿。

   イベントが終わると、今度は一人で最後まで後片付けをして

   いる姿。

   露店で見る内田さんはいつも一人でしたが、その姿は

   プロフェッショナルそのものでした。


   そんな内田さんが、いつか自分のお店が持ちたい、という夢を

   持つようになることは自然なことだったと思います。

   まだ4歳と2歳になったばかりの子どもたちにも、新しいお店を

   見せたかっただろうな・・・


   ついに彼がその夢を叶えることはありませんでしたが、

   そのような中で、暗闇に光明を見出すような嬉しいお知らせが

   飛び込んできました。

   奥さんと残った従業員の皆さんが力を合わせて、内田さんの

   意志を受け継ぎ、今後も「三河山吹きウズラ」の製造、販売を

   続けてくださることになりました。

   もっとも、内田さんがいない中で初めてのオペレーションと

   なるため、ひとまずは現状の受注分から対応し、生命線でも

   あるウズラの品質を落とさないように高いレベルで安定させ

   ながら取り組んでいきたいということです。

   実に頼もしい限りですね。


   まだまだ天国の内田さんも安心はできないかもしれませんが、

   しかし、内田さんが短い間にたくさん蒔いた種は、今、確実に

   芽を育もうとしています。

   その芽をこれから皆さんと一緒に育て、そして、花を咲かせ、

   実を結ばせます。

   その時こそ、内田貴士という人物が、今、ここで、確かに

   いきた、証となることでしょう。

   子どもたちの成長と共に。


   最後に、内田さんの「豊橋ウズラ」への強い思いを知る上で

   欠かせないこの資料をご覧ください。

   http://agri.aichi.jp/magalog/img/20180209008.jpg

   この資料は内田さんが自ら作成してくださったものなのですが、

   2012年3月に花園商店街で開催したイベントでの「ウズラ」を

   使った企画の提案書(現物)です。

   子どもたちが楽しく参加する様子を想像しながら、たくさんの

   アイデアを考えてくださっている姿が見えてきませんか?

   内田さんはウズラを「ビジネス」のための道具としてではなく、

   「地域の宝」として啓蒙したいと話していました。

   結局、自身にあまりに余裕がなく、またビジネス面ばかりが

   取り沙汰され脚光を浴びましたので、どこかで軌道修正を

   図りたかったのでしょう。

   そうした彼の意志はこれからも豊橋百儂人で受け継いで

   いきたいと思います。



   内田さんとの思い出は尽きず、まだまだ書き綴りたいことが

   たくさんありますが、それはまた別の機会とさせていただき

   ます。



   「最近、演歌にハマっちゃってるんですよねー」

   と、少し照れ笑いしながらウズラを焼く内田さんよ、

   永遠なれ。


   http://agri.aichi.jp/magalog/img/20180209002.jpg

   ※加工場にてくつろぎのひととき



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  2.内田貴士さんへのメッセージ、エピソード



   2018年1月22日の夕方、一報がありました。

   「内田さんの話聞いてる?」から始まった連絡は、自分の人生の

   中で一番衝撃を受けた話で、しばらく固まってから、辛く、

   悲しい、そして悔しい感情が溢れ出しました。

   内田さんは友人や仲間といった表現よりも、自分の中では同志

   であり1つの目標でありました。

   鶉と鶏との違いはありますが、畜産の現場・経営は外から見る

   よりもとても厳しいものです。

   普通に鶏や鶉を飼育しているだけでは経営は成り立ちにくく、

   毎日試行錯誤しながら経営の指針を探しています。

   そういった状況の中で、内田さんは常に私の先にいてくれました。

   鶉の卵から、鶉肉への切り替え、屋台等でのイベント出店、販路

   開拓の為の東京や大阪での商談展示会への出店。

   私が経営方針に行き詰まりかけた時、内田さんの姿・行動が

   いつも導いてくれました。

   そして内田さんのマネをしている私に対して嫌な顔を一つも

   見せずに、少しはにかみながら、内田さんが1から考えだした

   いろんなアイデアを教えてくれました。

   東京での商談展示会へ一緒に出展することがありました。

   内田さんはいつもカプセルホテルに宿泊していたので

   「内田さんは体が大きいのにカプセルホテルじゃ入りきれんし

    ゆっくり休めないでしょ」

   と冗談をいいながらも真面目で倹約家の彼を尊敬していました。

   その一方で経営の厳しさも感じておりました。

   事業計画・生産・鶉の処理・販売・商談・イベント出店すべて

   を一人でやられていたし、やらざるをえなかった面もあったん

   じゃないかと想像します。


   内田貴


   ようやく貴方が一歩一歩積み重ねてきた道が、花開いて満開に

   なろうとしてきた時に死んでどうするの?

   この先を見る為に今まで頑張ってきたんじゃないか!

   一番くやしいのは貴方だって分かっておりますが、

   残念でなりません。

   貴方の志を少しでも受け継いでいこうと思っております。


   養鶏儂人 高橋賢次(有限会社高橋養鶏 専務取締役)


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   私どものサンプル配布にいらしてくれた際にも、一緒に

   配ってくれて、内田さんに「申し訳ないですよ。」と

   声をかけたら

   「少し昔を思い出しました。こうしてうずらを広めようと

    思っていろいろなところで訴えたのが、なつかして、

    ついやりたくなったんですよ。」

   と言って笑ってくれました。

   本当にこの時の会話が忘れられないです。

   ものすごい微力なんですが、すこしでも農家さんの役に

   立ててると思えてすこしうれしかったです。

   今回のことで熱い思いをもたれて一生懸命生産してくれて

   いる農家さんの思いをしっかりと受け止め、大事に商品を

   販売していかなければならないと教えていただいたんだと

   思います。

   このことを私も含め社内でも受け止めながら、今後頑張って

   いきたいと思いますので何卒よろしくお願いいたします。


   株式会社スマイル-リンク 代表取締役 斎藤裕


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   2013年の7月に百儂人さんのサポーターに参加させて

   いただいて以来のお付き合いでした。

   体格そのままのおおらかなご性格であられたと思います。

   facebookでもつながり、東京・京都・大阪の超高級店での

   ご会食、大変うらやましく拝見しておりましたが、

   その裏には本当に身を削るような地道な努力があったので

   しょうね。

   前日の夜には風邪を引いて大変だというアップと、それに

   対する私の「お大事に」のコメントへの「イイね!」が

   最後のコンタクトでした。

   写真(http://agri.aichi.jp/magalog/img/20180209001.jpg)

   は2013年アイプラザ豊橋で行われた 『第41回 全国アマ

   チュアオーケストラフェスティバル豊橋大会』に出店した時

   の物です。

   私自体、初めての出店でなにもわからないところ、皆さんに

   助けていただきました。

   facebookでは、時々こんな思い出がタイムラインに出てきて、

   内田さんが、なにか、まだふらっと顔を出してくれるような

   気がします。

   謹んでご冥福をお祈りいたします。


   株式会社サンコー 営業部 神谷直方


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   残念!残念でなりません。

   唯一無二の存在、内田君が旅立ってしまいました。

   イベントの時、屋台でウズラを焼いている姿、優しい笑顔が

   目に焼き付いています。

   本当にいい雰囲気を醸し出している人で、私も内田君のように

   人と接したいと思っていました。

   内田君は亡くなってしまいましたが、彼の仕事に対する姿勢と

   思いは、私たち百儂人の皆の胸に残るでしょう。

   内田君、ゆっくり休んで下さい!


   鑑賞場儂人 中村孝康(菜ッ花園 代表)


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   内田さんとは、毎年夏の「ナイトズー」でお世話になって

   ました。

   ウズラ肉のアヒージョが大好きで、初めて食べたときは

   とても感動しました。

   ナイトズー期間中のお昼ご飯はウズラ肉アヒージョの焼き

   うどんが定番になり毎日食べてました。

   内田さんお手製のアヒージョがもう食べられないのかと

   思うと残念です。


   苺儂人 水谷充裕(のんほいイチゴ園とよはし 園長)


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   その訃報が伝わったのは冷たい雨の降る午後でした。

   携帯の画面は久し振りに見る後輩の名前でした。

   同窓会か何かの連絡かと思いウキウキした気分で電話に

   出た自分は、後輩の言っている内容を理解するのに少し

   時間がかかりました・・・・。

   その後輩は自分が以前関わっていた豊橋青年会議所

   メンバーでした。

   実は内田貴士君は百儂人となる少し前の短い期間でしたが

   青年会議所に在籍しており、自分と内田君はそこで知り

   合いました。

   農業関連のメンバーがまだ少ない時期でしたので、農業を

   通したまちづくりに期待を抱いていた自分にとっては良き

   仲間ができたと喜んだ記憶があります。

   しかし諸事情で内田君はすぐに退会してしまったため

   とても残念でした。

   時を同じくして立ち上がった豊橋百儂人には、実は初代

   養鶉儂人として内田君ではない方が在籍しておられま

   したが、彼が在籍した期間は短く、豊橋百儂人も鶉関係者

   のポストも空席となっておりました。

   そんな中、内田君が養鶉儂人として新たに百儂人に加わる

   ことになり、今度は本当に彼とともに地域農業を盛り

   上げる活動を行うことができました。

   まだまだ面白い取り組みを起こすことができるのに、

   これからがもっと楽しいのに、本当に残念でなりません。


   内田君が地域の、いや日本の鶉業界に先駆けて行った

   数々の取り組みはこれから大輪の花を咲かせること

   でしょう。

   内田君、天国であなたの遺志を受け継ぐ方々を優しく

   見守って下さいね。


   ありがとう、養鶉儂人・内田貴士。


   柿儂人・鈴木義弘(百年柿園ベル・ファーム 代表)


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   私が内田さんと知り合ったのは2009年か2010年ぐらいで、

   鳥インフルエンザの影響でうずら卵の出荷が激減した時期

   でした。

   内田さんは、他のうずら農家さんたちとうずら卵の消費回復

   に取り組むとともに、うずら肉の販売に力を入れていました。

   「まちなかマルシェ」の前身の「旬彩楽市」に、うずら

   応援キャラクター「うずラッキー」をプリントした横断幕の

   ブースで「こりゃクエール」を焼く姿がたびたび見られました。

   その頃、私は豊橋市の産業部の所属でしたが、直接の仕事上の

   付き合いはないながらも、うずらにかける想いは伝わって

   いました。

   その後初めて仕事として関わったのが、2011年9月に豊川市

   開催された「あいちを食べにおいでん祭」でした。

   これは翌年の「B-1グランプリin豊川」を控えて開催された

   「中日本・東海B-1グランプリ」の併催企画として、愛知県の

   ご当地グルメの食べ比べイベントでした。

   私は豊川市から出展依頼を受け、いろいろと候補を考え、

   うずら肉で行こうと考えました。

   内田さんにお話をしたところ、内田さんから、同じくうずら

   焼き鳥の「バグ龍」さん、うずらガラから出汁をとる「うず

   ラーメン」の「竜笑」さんに声を掛け、両店が出展することに

   なりました。

   その時のやり取りの詳細な記憶はないのですが、うずら

   消費回復に協力してくれている両店に感謝して、自身はバック

   アップに回ることを判断されたのだと思います。

   「あいちを食べにおいでん祭」は、当時のB級グルメブームも

   あり想像以上の人出でした。

   うずら焼きには長蛇の列ができ、行列が行列を呼び、早々に

   1日目の予定数量に達する売れ行きでした。

   楽しみに並んでくれているたくさんの人の姿を見て、内田さんは

   バグ龍さんと話し合い、2日目の分も売ることとし、最終的に

   2日分が完売となりました。

   内田さんは疲れた体をおして1日目が終わった後で、2日目の分を

   用意してくださいました。

   2日目も完売の大盛況。内田さんも大きな手応えを感じたのでは

   なかったでしょうか。

   その後の活躍は皆さんご存知のとおり。東京の高級店や国際線

   ファーストクラスの機内食に採用されても、地道にまちなかや

   動物園でのイベント参加を続けたのは内田さんの人柄だったと

   思います。

   私が2年間の東京勤務を終えて、昨年まちなかマルシェでお会い

   した時に、「もうどこにも行かないでくださいよ。」と声を

   掛けてくれた内田さんが、あまりにも早く遠くに行ってしまった

   のが、残念で仕方ありません。

   内田さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。


   東三河広域連合 総務課 小久保篤史


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   サポーターとなって半年ちょっとなので、内田さんにお会い

   する機会も少なかったのですが、内田さんへの追悼の気持ちを

   込めて少しだけ書かせていただきます。

   豊橋に越してきたばかりで知り合いも全くいない中で、昨年

   7月7日の百儂人の総会に参加させていただきました。

   会場で所在なく一人でいる自分に声をかけて下さったのが、

   内田さんでした。

   うずら文化のない自分にとって、うずらのことについて熱く

   説明してくれた内田さんのお話がとても新鮮で興味深かった

   ですし、内田さんの優しく実直な人柄にも知り合うことが

   できました。

   ぜひ、本物のうずらを見せていただきたかったですし、豊橋

   のうずら文化について、内田さんの熱いお話をまた聞きた

   かったです。

   その日にいただいた名刺は、これからも大切にしたいと

   思っています。   

   謹んでご冥福をお祈りいたします。


   北部地区市民館 館長 後藤敏朗


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   数年前ですが「うずラッキーのモデルが内田さんではないか!

   疑惑事件」でひとしきり爆笑しながら語り合ったこと。

   (いまだに私は信じています。)

   一昨年の1月1日、羽田八幡宮に初詣に行って、石灯籠の陰で

   疲れ切っている内田さんを発見!

   その疲れ切っている理由が気の毒すぎて(知る人ぞ知る「豊川

   稲荷事件」)、参拝の列に並びながら語り合ってしまったこと。

   内田さんが独身の頃、実はすごく近所に住んでいたのに、

   引っ越す間際の飲み会のときに、「実は・・・」と教えて

   くれたおちゃめな内田さん。

   去年の百儂人まつりの百儂人カレーのトッピングのうずら卵、

   一番人気になりそうと誰もが予想していて、

   「100個は要るよね~」

   って話してたのに、当日20個しか持ってこなくて、中神に

   びっくりされた内田さん(笑)

   一番最近のエピソードは、1月28日のここにこで開催された

   食農フォーラムに使う鶉肉とうずら卵の相談でほぼむちゃぶり

   な内容にもかかわらず、

   「了解です。見繕ってみます。」

   と1月17日にLINEで快諾してくれた内田さん。

   結局、幻となってしまいましたが。

   その1月17日16時32分の快諾メッセージ以降、

   こちらから送った同日18時07分のメッセージに既読が

   ついてるものの内田さんから返信されることは

   ありませんでした。

   思い出されるのは、あのなんとも言えない優しそうな笑顔・・

   ちょっとはにかんだ感じの話し方・・・

   ご冥福をお祈りいたします。


   カフェめし屋BRAVO オーナー 中神明子


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   じっくりとお互いの仕事の話が出来たのは飲みの席での一度

   だけでしたが、大きな事業の転換をしてゼロから築きあげて

   きた中での良かった事、大変だった事、失敗談や営業や商談の

   時具体的にこうすると良いよとアドバイスも惜しみなくして

   くれました。


   こだわりをもっていいものをつくる。

   そしてそれをちゃんと伝える。


   仕事と人がどんどん大きくなっていくその最中をまさに一年と

   少しですが自分は内田さんと知り合ってから見せてもらって

   いたと思っています。


   またいろんな機会で他の業種の方、特に飲食の経営者の方に

   お会いした時には本当に内田さんの名前がよく出るんです。

   その度にこれから内田さんさらにどうなっていくんだろうと

   勝手ながらワクワクする、そんな事が何度もありました。


   未だに嘘みたいだと思ってしまっています。

   内田さん、お疲れ様でした。

   どうか安らかにお眠りください。


   甘藷儂人 鈴木直樹(甘い甘藷そもそも 主宰)


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   あの日、私はワインを買いに酒屋へ行きました。

   そのワインとはブルゴーニュでワインを醸造する日本人、

   仲田晃司さんのものです。

   少し前にテレビで拝見して、仕事に対する情熱やその人柄に

   すっかりファンになりました。その仲田さんのワインが

   入荷していると聞き、インフルエンザで入院していた娘の

   ところに向かう前に酒屋さんに立ち寄り購入しました。

   ワインを手にして、仲田さんと内田さんとを重ねていました。

   仕事に対する姿勢や優しい話し方。世界で勝負する仲田さん、

   そして世界での勝負を見据えていた内田さん。

   私も頑張らないとと思っていました。

   そんな中に飛び込んできた訃報でした。

   内田さんとの思い出といえば、私が百儂人に入って間も

   ない頃。

   うずらの卵を預かる機会があり本来なら内田さんの職場まで

   取りに行かねばならないところ、

   「駅あたりまで行くよ。配達ついでだから気にしないで。」

   とすぐに言ってくださいました。

   行くと、車には配達の荷が山ほど積んであり、ついでとは

   言え、こんなに配達があるなか時間を割いてくれた内田さんの

   人柄を知りました。

   毎日、毎日忙しそうな内田さんとはその後、なかなかお話を

   するタイミングをつくれませんでした。

   しかし、いろいろ話すことができたのが昨年の百儂人まつりの

   打ち合わせでした。

   儂人の展示物のことで会議後や電話。イベント当日とたくさん

   の会話をすることができました。

   その話の中で、ウサギのお肉にも挑戦している話。ウズラの

   餌へのこだわり。

   百儂人のポロシャツをとにかくたくさん持っている話・・・

   その2回くらいしかじっくりと話すことができませんでした。

   内田さんとは、たくさん話をする事はありませんでしたが、

   仕事に対する姿勢を尊敬していました。

   本当に忙しくしていたけど、いつかじっくり話をしたいと

   思っていたんです。

   同業者として、そして父として夫として。

   悔しくて残念で仕方ありません。

   内田さんの今までは、これからも私を奮い立たせて背中を

   押してくれるとおもいます。

   かわりに私がやる事は、いつも百儂人のポロシャツを着ていた

   内田さんが、向こうで恥ずかしくないように百儂人を盛り上げる

   事だと今は思っています。

   うずら肉がこれからもっと多くの人に愛されますように、

   応援しています。

   心より御冥福を申し上げます。


   葡萄儂人 岩瀬宏二(チロルの農園 主宰)


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   内田貴士さんへ

   新たな道を切り開き生き抜いた、内田貴士君。

   己れに厳しく、誰よりも人に優しい人でした。

   あなたの人生を讃えます。


   茶儂人 後藤元則(ごとう製茶 代表)


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   ちょっぴり疲れた顔でニコニコしている彼がいる。

   鶉肉で日本全国に羽ばたいた彼の今後に期待していたものの一人

   として・・・、

   いまだ残念で仕方がない彼の死。


   こんな言い方をしてはいけないのだろうことはわかっているが、

   私の中のわがままの虫が騒ぐ。

   「自然に対峙する現場の中から生まれた豊橋の至宝である彼、

    どんなコンサルタントより、コーディネーターより、政治家より、

    将来、彼の方が地域を良い方向に導く力をもっていたはず。」


   少なからず似たような経験をしていた私は、彼の成功への物語を

   想像していた。

   1年ほど前から「女神のほほえみ」つながりで、話す機会も増えて

   いた中、彼が放った言葉が忘れられない。

   ・・・・・・「百儂人の意味がだんだん解ってきました。お客様に

          成長させてもらっています。」


   その時私は、お客様の彼への投票行動が、研磨剤となり突き抜ける

   前兆だと感じた。

   「消費は選挙」だといわれる言葉が頭の片隅から引き出される。

   当選間近、新たな物語が始まろうとしていた・・・のに。


   世の中の移り変わりは加速度的に早いけれど、

   豊橋百儂人の中で、私の心の中で、ずっと生き続ける彼と、

   ときどき酒を酌み交わしたいと思う・・・。


   檸檬儂人 河合浩樹(河合果樹園 代表)